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メールマガジン バックナンバー
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日本・バングラデシュ交流メールマガジン(第59号・2006/6/1)
―日本とバングラデシュの橋渡しのために―
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本メールマガジンは、当地在留邦人の皆様及び希望者に送付しておりま
す。本メールマガジンの配信開始・変更・中止のご希望がありましたら
、編集部までご連絡いただければ幸いです。
mail@embjp.accesstel.net
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□ 目次 □
【1】最近の日本・バングラデシュ関係
[これから]
●NHKドキュメンタリー(6月4日・日本)
●日本学生支援機構留学説明会(6月9日・ダッカ)
[これまで]
●井上新大使着任及び信任状捧呈(5月16日、6月1日・ダッカ)
●国別援助計画改定(5月19日・東京)
●イプセン国際会議演劇祭(5月11〜20日・ダッカ)
●生花コンテスト(5月12日・ダッカ)
【2】特別寄稿「ハイジャック事件から29年目の再訪問」
(元自治大臣 石井 一)
【3】青年海外協力隊リレー連載・第17回
「ジョンモスタン ヒロシマ」(出身地は広島)
(平成16年度2次隊・理数科教師 東英伸)
【4】編集後記
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【1】最近の日本・バングラデシュ関係
[これから]
●NHKドキュメンタリー(6月4日・日本)
日本時間6月4日午後10:10より、NHK衛星第一にて「BSドキュメンタリー『証言でつづる現代史・管制塔は三度揺れた!』ダッカ・ハイジャック事件29年目の真実」が放映される予定です。
先般、本番組制作のため、当時の運輸政務次官でダッカハイジャック政府派遣団長を務められた、石井一氏が当地を訪れました。同氏より今回の訪問についてのエッセイが寄せられましたので、【2】に掲載いたしました。
番組ホームページは以下のとおりです。残念ながら海外では視聴することができません。
http://www.nhk.or.jp/bs/bsdoc/
●日本学生支援機構留学説明会(6月9日・ダッカ)
6月9日午後3時半より、日本学生支援機構(JASSO)、帰国留学生会(JUAAB)及び当館の共催による留学説明会がバングラデシュ工科大学(BUET)講堂で行われます。
近年バングラデシュから私費による留学生が増加していることを受けて、文部科学省奨学金以外による留学等を中心に説明する予定です。
お問い合わせは当館広報文化班(Tel:881-0087)まで。
[これまで]
●井上新大使着任及び信任状捧呈(5月16日、6月1日・ダッカ)
5月16日、堀口松城前大使の後任として井上正幸文部科学省国際統括官が着任し、6月1日、バングラデシュ大統領代行ショルカル国会議長に信任状を捧呈しました。これをもって正式に日本大使として外交活動を開始することとなります。
●国別援助計画改定(5月19日・東京)
19日、第12回政府開発援助関係省庁連絡協議会が開催され、同連絡協議会において、対バングラデシュ国別援助計画(改定)が了承されました。
バングラデシュにおける近年の高い成長率を受けて、本計画では昨年10月に発表された貧困削減戦略に基づくバングラデシュの開発努力を日本が引き続き支援することを再確認した上で、経済成長、社会開発、ガバナンス改善の3点を重点目標として掲げています。
本計画の全文及び関連資料は以下の外務省ウェブサイトに掲載されています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/kunibetsu/enjyo/bangla.html
●イプセン国際会議演劇祭(5月11〜20日・ダッカ)
センター・フォー・アジアン・シアター(CAT)主催によるイプセン記念行事2006「イプセン国際会議演劇祭」参加のため、日本から「イプセンを上演する会」のメンバー13名が国際交流基金の支援を受けて当地を訪れました。
5月12日及び13日、国立劇場(シルポコラ・アカデミー)オーディトリアムにて「イプセンを上演する会」によるヘンリック・イプセン作、毛利三彌訳「ゆうれい」を数百名の観客の前で上演しました。関連記事がデイリースターに掲載されました。
http://www.thedailystar.net/2006/05/14/d605141402104.htm
http://www.thedailystar.net/2006/05/15/d605151403147.htm
同演劇祭には日本のほかインド、ネパール、パキスタン、台湾の劇団が参加し、20日まで公演が行われました。
●生花コンテスト(5月12日・ダッカ)
5月12日、ABKD生花協会(AISAA)、バングラデシュAOTS同窓会(BAAS)、日バ商工会議所(JBCCI)の共催でBAAS-AOTSトレーニングセンターにおいて、生花コンテストが行われました。
3名の在留邦人が審査員を努め、17名の参加者のうち5名の受賞者を決定しました。表彰式には上野日本人会会長他が出席しました。
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【2】特別寄稿「ハイジャック事件から29年目の再訪問」
(元自治大臣 石井 一)
(今般、NHKのドキュメンタリー番組制作のため、当地を来訪された元衆議院議員・元自治大臣の石井一氏より、当地を訪れた感想などをつづったエッセイがよせられました。)
29年ぶりにダッカを訪れた。うだるような暑さ、そして洪水のような人々の生き様は、当時と変わりなく、29年間のブランクは一瞬にして消え去り、あの記憶が次々と鮮烈によみがえってきた。
1977年9月28日から翌10月5日にかけての約1週間余り、ダッカ空港を中心に起きた日航機ハイジャック事件で、当時運輸政務次官だった私は否応なくその渦のなかに飛び込まざるを得なくなった。
私は福田総理(当時)に政府派遣団の団長を命じられて、事件の舞台となったバングラデシュに飛び、犯人たちとも折衝、第三国との交渉に当たったのだが、この体験は政治家としてというよりは、人間として、ひとりの男としてとても貴重なものであったと思う。29年もの歳月を経た今、思い起こしても肌身に冷や汗を感じる、そしてとても孤独で厳しい決断の連続であった。
犯人である日本赤軍のメンバーは、私たち日本政府をまったく相手にせずに、第三国であるバングラデシュ政府を仲介役にして交渉を進めるという周到な計画に徹したのである。加えてマムード空軍司令官に代表されるバングラデシュ政府は、当時、パキスタンから独立したばかりの新興国で、自国の主権を主張し、国家の体面にかけても流血の自体を避け、わが国からの影響力を最小限にとどめようとしていたからである。
このため、私たち政府派遣団の最初の難問は、犯人たちと対決するというよりも、いかに両国の国益を合致させるかということに費やされた。日本政府の基本方針は「ダッカでの人質全員解放」で、その手順を練り上げてもっていったのだが、私たちが現地ダッカに着いたとき、マ司令官はすでに「部分釈放」の線で犯人たちと交渉を終えていた。部分釈放で犯人たちの要求に応じ、一刻も早く“疫病神”を追い払うのがベストだと考えていたからだ。それも彼の立場からすると当然かもしれないが・・・。
しかし、部分釈放を認めてしまえば、機内に残る82人の人質をどう救えばよいのか。日本政府の訓令と国民の期待にどう応えればよいのか。「ノー」といえば人質の処刑が次々に執行されるはずだ。米人銀行家ガブリエル氏の最後の言葉がマイクを通じて伝わってきた。緊迫した状況のなかで、私の苦しみは、残る82人の人質とわが身をなんとか交換できないかということであった。
マ司令官にも交渉を頼み、また実行犯のリーダー奥平純三にも「オレが入る。人質を出してやってくれ」と直談判もした。同時に「自分が入れば、まず殺されるだろう」という不安を正直言って振り払うことができなかった。人質との交換は犯人側の「ノー」で実現しなかったが、まさに死線を彷徨うギリギリの局面であった。
今回、このダッカ・ハイジャック事件のドキュメンタリー番組をNHKが作成するということで、NHKのクルーとともにダッカへ向かった。そして、上述のマムード司令官とあの管制塔での再会、対談を行った。また、不幸にも起きてしまった空港でのクーデター事件での犠牲者の墓地を訪れ、花を捧げさせていただいた。
私は、ハイジャック機の乗員・乗客の全員救出に成功はしたが、その一方であの時発生したクーデター事件によって、300人もの軍人や、流れ弾にあたってなくなられた民間人がいたのである。そして、その犠牲者の遺族の方にもお会いをした。私にとっても昨日のことのように思われる出来事だが、肉親を亡くされた方々にとっては私以上にその記憶は鮮烈に残っていることを強く印象付けられた。
また、今回の訪問では、大使館の皆様だけでなく、ダッカ駐在の日本企業の方々ともお会いした。中でも、丸紅の小林さんや東洋エンジニアリングの三島さんからお伺いしたお話に驚いたのが、29年前のハイジャック事件当時、ハイジャック機の乗客や私たち政府派遣団へおにぎりの差し入れをしてくれた現地のご婦人たちが、今もダッカに駐在されているとのことだった。
当時は、ハイジャック事件の対応で身も心も手一杯であったため、誰がおにぎりを作ってくれたのかを考えもしなかったが、あの事件の裏側にはそうした多くの方々の愛情とご厚意があったことを、改めて認識をした。そして、今もダッカにおいて日本とバングラデシュの橋渡しのために力を尽くされていることに、心から感銘をし、敬意の意を表するところである。
今回、ダッカを訪問して本当に良かったと思う。当時、殴り合いの寸前まで言い合ったマムード司令官とは、あの修羅場をともに経験した、まさに死線を越えた者同士として、生涯の心の友でありすばらしい個人的な関係を築くことができた。
バングラデシュの政界は今も与野党の厳しい対立を続けているようだが、バングラデシュ政界の誰もが、あのハイジャック事件を今でも鮮明に覚えている。そして私自身、この国との少なからぬ因縁を、改めて確認することとなった。この場を通じて、この先の人生、バングラデシュと日本の橋渡しにもてる力を最大限に尽くすことを皆さんにお約束し、結びとしたい。
石井一ホームページ http://www.hajimeishii.net
NHKドキュメンタリー放映予定
2006年6月4日(日) NHK衛星第一放送 午後10:10〜11:00(日本時間)
※再放送
2006年7月10日(月) NHK衛星第一放送 午後6:10〜7:00(日本時間)
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【3】青年海外協力隊リレー連載・第17回
「ジョンモスタン ヒロシマ」(出身地は広島)
(平成16年度2次隊・理数科教師 東英伸)
あなたの出身地はどこですか?
あなたは人生の多くをどこで過しましたか?
あなたは出身地のことについてどれだけ知っていますか?
私は自分が思っているほど自分の出身地のことを知りませんでした。
バングラデシュに来て早1年半、未だに街ゆくベンガル人から「どこの国から来たんだ?」「名前はなんだ?」「バングラデシュで何をしてるんだ?」「兄弟は何人いるんだ?」と決まり文句のような質問を受ける毎日を過しています。日本から来たと言えば、日本のどこから来たのかと聞き返される。そんなこと聞いても日本の地名知らないんじゃないのか?と色眼鏡で見てしまっていた時期もありました。しかし私に質問する人する人皆がその名前を知っていました。
「私はヒロシマから来ました」
そう答えると殆どの人が「ヒロシマ!?ヒロシマといえばアトミックボムが落とされたあの場所か?」とか「ヒロシマ・ナガサキのヒロシマか?」と驚きながらも答えてくれます。
まぁ中には
「ヒロシマ・ナガシカのヒロシマか?」←この間違いは結構多い。
ん〜、あってる様で間違ってるからそれ。「ナガシカ」って…。
「ヒロシマ・ナガシマのヒロシマか?」
長嶋…、あ〜そうそう、広島カープの新監督は長嶋茂…オイッ!「ナガシマ」って…。
それ「ナガサキ」だから…。
もちろんこんなコントの様な会話をベンガル人としているわけではありませんが、大抵のベンガル人はヒロシマとナガサキの名前を知っていました。
2005年8月6日、私は活動先である教員訓練大学(TTC)ラッシャヒ校の生徒(教師を目指している人や現職の教員)50人を対象にアンケートを取りました。アンケートの内容は「8月6日、今日は何の日ですか?」という質問を中心に9項目。結果は5人以外は皆原爆が落とされたことを知っていました。
当時原爆が落とされたことは知っていても、未だに破壊された状態のままで植物も生えない荒地になっていると思っているベンガル人も多くないことがわかりました。ベンガル人は初中等教育の歴史の教科書で「ヒロシマ・ナガサキ」について学んでいました。しかし2000年頃からは初中等教育の教科書からヒロシマ・ナガサキに原子爆弾が落とされたことが削除されているそうです(正確なことは今後調べる予定です)。現在の子ども達は親からその話を聞く以外知る機会が無くなっている現状にあることがわかりました。
私がバングラデシュに来るチャンスを獲得したときから、バングラデシュの人達に日本のことヒロシマのことを伝えたいと思っていました。しかし、実際にバングラデシュに来てベンガル人と接していくうちに「自分が思っているほど自分は日本のことやヒロシマのことを知らない」ということに気づきました。もしかしたらベンガル人と同じくらいの知識しかヒロシマのことを知っていないのでは、とも考えたことがあります。海外で活動している日本人(広島県人)として恥ずかしいことですが、話の流れからベンガル人に質問され富士山の高さ(3776m)を答えられなかったり、原爆の犠牲者の数(広島の当時の人口35万人中14万人、長崎の当時の人口24万人中7万4千人が亡くなったこと)を答えられなかったり…具体的なことが何ひとつ言えてない自分がいました。
バングラデシュで暮らす2年間は、日本の外に出てみて改めて日本のことをみる機会であり、自分のことも見つめ直すいい機会になっています。
2006年5月5日と12日の2日間、私は同じバングラデシュで活動している隊員を集めて「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真ポスター展」(ポスター30枚の展示、ビデオ「ヒロシマ・母たちの祈り」上映、折鶴教室)を、私の配属先であるTTCラッシャヒ校と同期隊員の活動しているTTCクルナ校で開催しました。
いともあっさり開催しましたと書いてしまいましたが、開催するまでの苦労と言えばそれはもう血と汗と涙と…。まぁ実際は汗と汗と冷汗と汗…ぐらいですけど。暑いさなか広告用のポスターを街のいたるところに張らさせもらいに行ったり、広告用横断幕を作ったり。バングラデシュの郵便事情の悪さの原因で広島平和記念資料館に申請して取り寄せた原爆写真のポスター(30枚)およびDVDが、申請から2ヶ月で届くはずが4ヶ月経っても届かなかったり(DVDは郵送途中で紛失、ポスターは開催1週間前に届きました…冷汗)。もし届かなかった時の場合を考えて日本大使館より全く同じ原爆写真のポスターと上映用のビデオテープを貸与させていただいていました。(この場を借りて御礼申しあげます。広報文化班の飴谷さんお世話になりました。)
最も大変だったのは原爆写真のポスターに書かれてある説明書き(英語)をベンガル語に訳す作業でした。ベンガル語のつたない私一人ではどうしようもない作業だったので、私の配属先の同僚に当たる化学の先生とともに行うことにしました。学校が閉まるのが夕方5時、大体6時ごろから先生の自宅にお邪魔して夜9時ごろまで毎日のように通い続けました。時には休日である金曜日にお邪魔する時もありまた。途中先生が根をあげて作業が中断することもしばしば。停電とともに二人のヤル気が落ちることもしばしば。なんとか残り1枚分まで翻訳したところでタイムリミットとなってしまい、今回の2会場の原爆展ではポスター横に貼り付けた翻訳文章が歯抜けの状態での開催となってしまいました。そのうえ推敲のされていない文章をそのまま掲示することになり、悔しさは残りましたが当日見に来てくださった人たちが翻訳文章を見ながらポスターを見てくれている姿を見て、やってよかったと改めて感じました。
課題はたくさんあります。私が帰国する12月までの間にあと何ヶ所で開催することができるだろうか。次の開催は7月下旬マイメンシンでの開催を予定しています。
あなたの出身地はどこですか?
あなたは人生の多くをどこで過しましたか?
あなたは出身地のことについてどれだけ知っていますか?
私はバングラデシュに来て、改めて日本のこと広島のことを考えています。
(青年海外協力隊)
http://www.jica.go.jp/activities/jocv/
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【4】編集後記
私事で恐縮ですが、今般在シカゴ総領事館への異動が決まりました。今号が私にとって最後の編集となります。これまで約2年間、本メルマガを通じ、バングラデシュにかかわる各方面の方々から多くのことを学ぶことができました。また読者の皆様からのあたたかいメッセージ等もいただき大変感謝いたしております。シカゴでも広報文化を担当することになりそうですので、ここでの経験を活かしたいと思います。これまでのご愛読まことにありがとうございました。今後とも本メルマガをよろしくお願い申し上げます。
(在バングラデシュ日本大使館総務・広報文化班 飴谷貴信)
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発行:在バングラデシュ日本大使館
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FAX(880-2)882-6737
http://www.bd.emb-japan.go.jp/
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