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日本・バングラデシュ交流メールマガジン(第 10号・2004/06/24)
?日本とバングラデシュの橋渡しのために?
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□ 目次 □
【1】堀口大使メッセージ「バングラデシュの私立大学」
【2】最近の日本・バングラデシュ関係
[これから]
●在外選挙(6月25日〜7月4日・於ダッカ)
●ハルタル情報(7月3日・於バングラデシュ全土)
●バングラデシュ・チャリティ・カレーパーティ(7月17日・東京)
[これまで]
●サイクロンシェルター交換公文署名式(6月17日・ダッカ)
●日本とバングラデシュの詩人による詩本発表・朗読会(6月17日・ダッカ)
●バングラデシュ開発援助勉強会(6月13・23日・ダッカ)
【3】特別寄稿「日本トレードショー顛末記」
(ジェトロ・バングラデシュ事務所長:西川壮太郎氏)
【4】駐バングラデシュ歴代大使の証言・第5回(第5代大使:小林俊二氏)
「ダッカ電話網整備計画とビマン航空機の遭難」
【5】バングラデシュ名所案内・第6回「アーサン・モンジール訪問」
【1】 堀口大使メッセージ「バングラデシュの私立大学」
先日、ノース・サウス大学とともにバングラデシュ私立大学の頂点に立つインデペンデント大学(IUB)を訪ねました。先般日本政府が同大学に日本関係図書を寄贈したことから、今回チョードリ学長に招待されたものです。
IUBは1993年に設立され、教養学部の他、ビジネス学部、コミュニケーション学部、環境科学・管理学部の3つがあり、学生数2133名に対し教師は144名(フルタイム98名、パート46名)もいて、教師対学生比が1対15という教育の質の高さを誇っています。学長の説明によれば、IUBのもう一つの自慢は、時代のニーズ、社会の需要を絶えず先取りし、真に有用な人材を養成していることであり、例えば、当国がとくに必要としている人口環境学、環境行政学、病院経営学などの他、家庭内暴力学も正規の学問として取り上げている由です。
卒業生は1997年の27名から毎年増えて、2003年は228名になりました。就職先としては、銀行・証券、教育、ガーメント関連など当国の一流企業の殆どに進出しています。公務員は給料が低いため全く人気がないそうです。なお、家庭内暴力学を専攻する学生はNGOに就職する由で、当国におけるNGOの存在の大きさを再認識しました。しかし、IUBの就職アドバイザーは、国内の一流企業への就職に拘ることなく、卒業生が学んだ知識を活かして自ら起業したり、インターネットを使い外国企業に雇用を求めて外国で活躍することを奨励しており、IUBの教育が目指すのは、学生にかかる能力と実力をつけさせることにあるとしています。
当国の私立大学は1992年、公立大学のみでは高まる高等教育のニーズに応じ得なくなっていること、公立大学では政治活動などで教育レベルが低下していることなどへの対応として設立が認められました。私立大学の数はしばらく20校位で推移していましたが、この2年間に30数校も増え現在は52校に達しています。このような急増の当然の結果として、その多くが授業料だけは高いにも拘わらず、校舎、図書館、研究室などの施設の未整備、有資格のフルタイム教師の絶対的不足、教育指導計画の欠如、利潤優先の理事会と教育優先の学長の対立などの問題を抱えています。
とくに大きな問題は、そもそも公立大学の教育の不十分なところを補うために設立されたはずの私立大学が、有資格のフルタイム教師を必要数集められないため、公立大学から引き抜いたパートあるいは若い教師に依存しすぎることとなり、その結果公立大学の教育の質を著しく低下させてしまっていることです。公立大学の教師が私立大学に完全に移籍するのであれば、公立大学は有資格の別の教師を採用できるのですが、公立大学の教師は公立大学の教師であることに大きな権威ないし意味があるため、給与が高くても私立大学にはフルタイムの教師としては移りたがらないのだそうです。
このような多くの問題を抱える当国の大学の中でIUBは光を放っています。チョードリ学長率いるIUBが、バングラデシュの国造りを担う人材の養成に益々大きな役割を果たすことを願っています。
【2】 最近の日本・バングラデシュ関係
[これから]
●在外選挙(6月25日〜7月4日・於ダッカ)
第20回参議院議員通常選挙は6月24日(木)に公示され、7月11日(日)が選挙期日(国内投票日)となります。在外選挙人名簿に登録され、「在外選挙人証」をお持ちの方は、以下の通り在バングラデシュ日本大使館にて「在外公館投票」を行うことが出来ます。(なお、「在外公館投票」の他に、「郵便投票」「帰国投票」でも在外投票を行うことができます。)
(1)投票期間:平成16年6月25日(金)〜7月4日(日)
(2)投票時間:午前9時30分〜午後5時(休憩時間なし)
(3)投票場所:在バングラデシュ日本大使館別館領事部2階応接室(住所:
House No.NE(M)-1, Road No.84, Gulshan Model Town, Dhaka)
*領事部入口より入館し、テニスコート脇の階段を利用して2階へおいで下さい。なお、これまでの在外公館投票は大使館本館の多目的ホールで実施してきましたが、今回は本館多目的ホールでの投票は実施せず、別館のみで実施することになりますのでご注意ください。
(4)持参書類(何れも原本のみ)
(イ)在外選挙人証
(ロ)旅券又はその他の本人確認のための書類(日本国、居住国政府又は地方公共団体が交付した顔写真付の身分証明書(運転免許証、官公庁の身分証明書等)投票関連情報が大使館のウェブに掲載されました。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/jp/mailMagazine/zaigaisenkyou2004.html
●ハルタル情報(7月3日・於バングラデシュ全土)
7月3日(土)、日の出から日没までバングラデシュ全土でハルタル(ゼネスト)が行われる見込みです。当日は慎重な行動を取るよう努めてください。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/jp/safety/hortal240604.html"
●バングラデシュ・チャリティ・カレーパーティ(7月17日・東京)
7月17日(土)夜、NGOハンガー・フリー・ワールドが東京の市ヶ谷でバングラデシュ・チャリティ・カレーパーティを開催します。詳細はウェブサイトをご覧ください。
http://www.hungerfree.net/event.html
[これまで]
●サイクロンシェルター交換公文署名式(6月17日・ダッカ)
6月17日に大蔵省経済関係局にて、無償資金協力「第5次多目的サイクロンシェルター建設計画」交換公文署名式が、堀口大使とベッグ大蔵省経済関係局次官の間で行われました。チッタゴン、コックスバザールおよびノアカリ県のサイクロンの被災を受けやすい地域に、20棟のサイクロンシェルター兼初等学校を建設するものです。これまで(1993年以降)、日本は61棟のサイクロンシェルター建設を援助しています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/16/rls_0617f.html
●日本とバングラデシュの詩人による詩本発表・朗読会(6月17日・ダッカ)
6月17日、ショナルガオンホテルにて約200名が参加して、詩人の白石かずこ氏及びアミヌル・ラーマン氏がそれぞれ相手の詩をそれぞれの母語にて編集・出版した本(Kazuko Shiraishi’r Kabita/アミヌル・ラーマン氏編集、Love Poems/白石かずこ氏編集)の発表会及び詩の朗読会が開催されました。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/embassy/speeches/25sphblc170604.html
●バングラデシュ開発援助勉強会(6月13・23日・ダッカ)
バングラデシュ開発援助勉強会では、6月13日に約50名の参加を得て、(1)「バングラデシュ勤務を振り返って」(坂本JICA所長発表)(2)「バングラデシュの地方行政における予算制度と流れ」(萩原JICA企画調査員発表)につき議論しました。また、6月23日には約20名の参加を得て、「援助モダリティとグッド・ドナーシップ〜援助モダリティ選択の基本的視点とバングラデシュの位置付け〜」(大野泉政策研究大学院大学教授発表)につき議論しました。関連資料はバングラデシュ・モデルのウェブサイトに掲載しています。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/jp/bdmodel/index.html
【3】特別寄稿「日本トレードショー顛末記」
(ジェトロ・バングラデシュ事務所長:西川壮太郎氏)
●不安におびえ眠れない夜・・・
終わってみれば、日本トレードショー(主催:ジェトロ)は、大成功だったと言えるかもしれません。目標としていた米国トレードショーの2倍近い来場者を獲得し、成約額(スポットセールを含む)は、分かっている範囲だけでも1億6千万タカ(約2億3千万円)を超えました。出展企業の96%が「また次回の日本トレードショーにもぜひ参加したい」とアンケートにお答えいただきました。
しかし、ここにたどり着くまで、不安におびえ眠れない夜を何度も迎え、一体何回全てを放り投げてキャンセルしようかと真剣に考えたか数え切れません。二歳の娘よりも寝つきがよくて、いつも妻からうらやましがられている(あきれられている?)私が眠れなくなるとは予想もしていませんでした。
●裁判沙汰?
全ての間違いは、担当イベント業者の選択から始まりました。実は今だから言えることですが、この業者は不払いを理由に私(ジェトロ)を裁判に訴えようとしていました。
展示会を開催するには、様々な準備作業がありますが、最初の作業は出展業者を集めることです。「○月×日までに△社を集める」という契約になっていたのですが、この業者はそれを達成できませんでした。業者との会議の席上で「達成できなかった以上、全額支払うわけにはいかない」と私が述べた途端、ドアが壊れるほど思いっきりバタンと閉めて、立ち去ってゆきました。
翌日からこの業者に別件の用事で連絡しても、まったく返答なしの姿勢が10日間以上も続き、調べたところ、毎日、同社の顧問弁護士を呼んでジェトロを不払いで訴える手続きを進めているとのこと。心臓が飛び出るくらい(?)驚きました。
私は売られた喧嘩は買う性分の江戸っ子です。当方の落ち度はありませんし、「だったら、こっちから逆提訴してやる」と決意したのですが、以上の経緯を私が当国で最も尊敬しているH氏に相談したところ、「裁判で勝っても、あなたの立場としては負けます(裁判に時間が取られ、展示会は滅茶苦茶になる)。ここは負けて、勝ちなさい(業者に全額支払って、展示会を成功させるべき)。」とアドバイスを受け、泣く泣く方針を転換しました。
早速、業者を呼んで全額支払い、その業者が行うべきサービスの大半はジェトロが行うという、およそ訳のわからない日々が始まりました。その日からほとんど毎日午前1時まで残業が続くことになり、帰宅してベットに入っても「今日やり残したことは無かったか」と心配で寝付けない生活になりました。
(この調子で、展示会の当日まで書いていくと、一冊の本になってしまうので中略。)
●ブースがない!
展示会の日がやってきました。信じられないハプニングがいくつも発生しました。一番驚いたのは、地図上では完璧だったブースの配置が、実際に会場に来てブースを設営し始めたら予定数のブースが設営できなくなってしまったことです。
会場の一辺の長さをブース一辺の長さで割って計算すれば、いくつのブースが設営できるか、誰でも計算できるはずなのですが、業者はこれを間違えてしまったのです。会場地図くらいはちゃんと作れるだろうと信じていた自分を責めました。私の能力が低いのかもしれませんが、一人事務所として対応できる業務量をはるかに超過していたのです。
当然ながら、出展者から「自分の会社のブースがない!」という猛烈な抗議を受け、緊急措置として別の場所にブースを移設しました。その際に玉突きのように、別の出展者であるN氏にご無理をお願いして、予備のブースに移動していただきました。(本件の対応のまずさにより、N氏から「来年は出展しない」と言われてしまいました。トホホ・・・)
3日間の会期中はハプニングの連続(展示物の盗難など)で昼食を食べる時間もなく会場を走り回っていたので、おかげで4キロ痩せることができました。展示会が終了し、後片付けが終わった翌日は何と13時間連続で寝てしまいました。こんなに長時間をぶっ通しで寝つづけたことは学生時代以来のことです。痩せたことがせめてもの良かったことかな、と思っていたのですが、展示会が終わって2週間経った今、完全に元の体重に戻ってしまいました(泣)。
余談ですが、個人的には展示会と同じくらい力を入れていたのが、期間中に会場レストラン内で開催した「和食フェア」でした。食材をバンコクから調達するだけでなく、日本人シェフまでバンコクから招いて開催しました。当地にはまともな日本食レストランがないため、何を隠そう私自身が寿司を食べたいために企画したものでした。しかし、結果として最終日の閉店間際に私が食べに駆けつけたときは、すでに寿司・刺身はありませんでしたとさ。
【4】駐バングラデシュ歴代大使の証言・第5回(第5代大使:小林俊二氏)
「ダッカ電話網整備計画とビマン航空機の遭難」
バングラデシュの8月は雨期の最中であり、乾期には顔を出している国土の何割かが水中に没します。1984年8月5日の午後、チッタゴン発ダッカ行のビマン航空ターボ・プロップ機がダッカ空港着陸寸前に沼に突っ込んで水没し、乗客乗員約50名全員が死亡する事件がありました。朝方からの豪雨は上がっていましたが、滑走路を含む空港一体が水浸しであったため、滑走路の位置を見誤って手前の沼に着水したのが事故の原因でした。乗客には住友商事の職員2名が含まれていました。1名は東京本社から出張した邦人職員、他の1名はロンドン支店から派遣された英人職員という説明を受けたように記憶しています。
この事故と日本の資金援助によるダッカ電話網改善事業との間に少なからぬ関わり合いがあったことを承知している人はほとんどいないのではないかと思います。犠牲となった住友商事の職員のためにもその事情を書き残しておきたいと考えたのはこのためです。
パキスタンの電話設備は東パキスタン(バングラデシュ)の分離独立前から西独シーメンス社の独壇場でした。このためバングラデシュの電話設備への進出を企図したわが国の電気通信業界はダッカ電話網改良計画を作成し、バングラデシュ政府に提案することを企画しました。83年12月、ダッカのホテルに担当閣僚であるカーン通信相(海軍参謀長兼戒厳副司令官)その他の関係者を招き日本側購送についての説明会が開催されました。次いで翌84年2月には業界団体派遣の調査団がダッカを来訪して所要の調査に従事しました。
この動きに警戒の念を深めたシーメンス社は急遽西独政府を動かして電気通信担当相をダッカに派遣し、カーン通信相との間でひざ詰め談判を行わせました。その結果両閣僚間にバングラデシュにおける電話交換機は引き続きシーメンス社製品を使用するという趣旨の覚え書きが取り交わされたと伝えられ、日本側は計画の推進が容易でないことを覚悟せざるを得ませんでした。
しかし6月初旬、突然カーン通信相が更迭され、オバイドゥラ・カーン農業相と交代しました。オバイドゥラ・カーン氏は詩人でもある文化人であり、私が接触したバングラデシュ側指導層の中でも特に親日的な印象の強い人物でした。
通信相の交代がシーメンス社の工作と関係があったのかどうか定かではありませんが、この交代は悪い報せではないように思えました。6月14日、私は調査団の報告書提出のため来訪した業界団体の幹部を伴って新通信相を往訪し、ダッカ電話網改良計画調査報告書を手交して検討を求めました。通信相は積極的な関心を示し、至急検討すべき旨を約しました。
その後私は通信省当局と次官レベルで接触を維持し、前向きの結論を促し続けましたが、シーメンス側も前通信相を巻き込んで種々画策していた模様であり、事態は円滑には前進しませんでした。7月末、事務当局の結論は交換機を除く部分についてのみ日本の提案を受け入れるという結論に傾き、電気通信担当次官はその趣旨の書簡を発出するという意向を私に表明しました。
その矢先に発生したのが冒頭のビマン航空機水没事故でした。犠牲者の救出ないし遺体の回収のため海軍のフロッグマンが多数投入され、徹夜の作業が行われました。カーン前通信相(農相)は海軍参謀長として現場に駆けつけ、夜を徹して陣頭指揮に当たりました。ところが徹夜作業の疲労が祟ったのでしょう、同参謀長は翌朝、心臓発作を起こして急死してしまったのでした。
8月8日にはダッカの仏教寺院で邦人犠牲者のための法要が行われ、続いてヒンズー教徒用の火葬場で遺体が荼毘に付されました。火葬場といっても露天の河原に鉄の枠組みを設けただけの設備であり、この殺風景な設備での荼毘は余りに生々しく、遺族の参列を差し控えてもらっていましたが、私も途中でいたたまれなくなって大使館に逃げ帰りました。翌9日には遺族数名が住友商事の支店長に伴われて大使館を訪れました。
母親という婦人は私から何をお話しても目を見開いたままにこりともせず、凍りついたような表情を変えなかったのを忘れることができません。その表情はわが子の死を断じて諦めきれないと訴えているかのごとくであり、母にとって息子という存在のかけがえのなさを今更の様に思い知らされたのでした。年末には住友商事の伊藤社長が殉職した職員の慰霊のためダッカを来訪されました。
事故の後、バングラデシュ当局による日本提案の処理はオバイドゥラ・カーン通信相の支持を得て順調な進展を見せ、9月初旬には経済企画庁に付託されたとの説明を受けましたが、同月中旬、同氏が駐米大使に任命され、通信相の任を解かれたことで問題は再び複雑化する気配となりました。しかし翌年1月20日には私自身が帰朝のため離任することになり、新任のスルタン・アーメド通信相(海軍参謀長)に日本側提案の採択を重ねて慫慂した上で後事を後任の田中大使に委ねなくてはならなくなりました。
この問題をめぐるその後の推移は東京で風の便りに耳にするだけでした。しかし田中大使の努力もあったのでしょう、ダッカ電話網改善計画はやがて日本側提案が全面的に採用され、交換機を含めNEC製品を中心とする包括的改善工事が円借款により実施されただけではなく、引き続き追加円借款により拡大計画も実現を見たと承知しています。
施工契約の担当商社は住友商事でした。殉職した住友商事の職員はこの計画のためにバングラデシュに出張したわけではなかったのでしょうが、事故から派生したカーン前通信相の急死が日本側提案の全面的採用を促進する結果になったことには疑問の余地がありません。
ダッカの電話施設に日本製品が中心的な役割を果たすようになった事実の陰に住友商事職員の遭難という犠牲があったことをダッカ在留邦人その他関係者の皆さんが記憶に留めて下さる事を願って筆を置く次第です。
(小林俊二大使は1983年9月から1985年1月まで当地在勤)
【5】バングラデシュ名所案内・第6回「アーサン・モンジール訪問」
ダッカ旧市街の更なる見所としてあげられるのが、アーサン・モンジール、別名ピンク・パレスであり、バングラデシュの最もすばらしい建築物の一つとして知られています。
ムガール時代にアーサン・モンジールはジャマルプールのザミンダール(地主)に所有されていましたが、その後はフランスが貿易センターとして用いていました。
ダッカの統治者(Nawab)一族の祖であるカジャ・アリムッラは1830年にフランスより建物を購入し自らの住居としました。その後の1859年に息子のカジャ・アブドゥル・ガニが居城の建設に着手し、1872年に完成させましたが、1888年の竜巻、1897年の地震により城はかなりの損害を被りました。しかし、ガニの息子でその名に城の名前が由来するカジャ・アサヌッラはその都度修復作業を行って城の保全に努めました。
このアーサン・モンジールは多くの歴史的行事の舞台となってきました。英領統治時代の英国人統治関係者が多数この城を訪れていましたし、19世紀後半以来、東ベンガルのムスリムの指導者として中心的な役割を果たしていたナワブ・カジャ一族により、全インドムスリム連盟、ひいてはムスリム国家の組成に繋がるような重要な会議がこのアーサン・モンジールで開かれました。
しかし、主権国家の成立とともに1952年に一族の地所が失われ、城は人手にわたりました。1985年に政府がアーサン・モンジールの歴史的建築物としての重要性を認識して一帯の土地を買い上げ、修復作業に着手するまで、ずさんな管理により城には不法に居住者が住み着き、長い間スラムのような状態のまま放置されていました。修復作業が完了した1992年以来、アーサン・モンジールは博物館として用いられています。
館内には様々な物品・絵画等が展示され、一部の部屋はかつてのナワブ一族の裕福な生活が忍ばれる美しい家具・調度品で飾られています。内部の木製の階段の手すりや客間の天井の装飾も優雅で一見の価値があります。また、ブリガンガに面した2階のベランダからそよ風を受けながら眺める緑溢れる景色もすてきです。
私達が訪れたのは金曜の午後で、家族や友人同士が連れ立ってにぎやかに参観していました。みんな思い思いに着飾り、休日を心から楽しんでいるといった風です。私はバングラデシュに観光にきた友人とそのお父さんと一緒でしたが、本当に皆から良く話しかけられました。
笑顔で、どこからきたの?一緒に写真を撮ろうよ!等々。友人とお父さんは気さくで明るくて人懐っこいバングラデシュ人がすっかり好きになってしまい、一緒にたくさん写真に収まりました。写真を撮っていて人が集まりすぎると、交通整理を買って出てくれるおじさんまで現れました。「用心してかからねば」といったいつもの私の心の中の壁も取り払われ、周囲のベンガル人とも一緒になって楽しんだ休日になりました。
開館日:木曜日を除く毎日
土曜日〜水曜日:午前10時〜午後5時まで
金曜日:午後3時〜午後7時まで
入場料:2タカ
(大使館広報文化班・河野秀美)
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