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日本・バングラデシュ交流メールマガジン(第 8号・2004/05/27 ? 日本とバングラデシュの橋渡しのために ?
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□ 目次 □
1】堀口大使メッセージ「ラロン・シャー橋開通とパドマ川」
【2】最近の日本・バングラデシュ関係
[これから]
● グラミン銀行ユヌス総裁の「日経アジア賞」受賞 ( 6月2日・東京 )
● バングラデシュ開発援助勉強会( IT 協力)(6月2日・ダッカ)
● 日本トレードショーの開催(6月8〜 10 日・ダッカ)
● 日本バングラデシュ・ビジネスフォーラム(6月8日・ダッカ)
● 日本・バングラデシュ商工会議所 (JBCCI) 設立式(6月8日・ダッカ)
● アジアの写真家たち 2004 ・バングラデシュ展(5月 18 日〜6月 17 日・東京)
[これまで]
● バングラデシュ人材育成奨学計画への無償資金協力(5月 25 日・ダッカ)
● 「日本・バングラデシュ関係の 30 年」セミナー(5月 23 日・ダッカ)
● バングラデシュ医療事情講演会(5月 22 日・ダッカ)
● ラロン・シャー橋(パクシー橋)開通式典(5月 18 日・ラロン・シャー橋)
[おしらせ] ● 渡航情報の発出
【3】特別寄稿「バングラデシュ人気質」 (ダッカ日本語学校校長:ブイヤン和子氏)
【4】駐バングラデシュ歴代大使の証言・第3回(第8代大使:齋木俊男氏)
「深夜の会談」 【5】バングラデシュ名所案内・第4回「ショドルガット訪問」
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【1】堀口大使メッセージ「ラロン・シャー橋開通とパドマ川」
5月 18 日、日本の資金協力で完成したラロン・シャー橋の開通式に出席しました。テントを張った会場には数百人の人がいましたが、その外には数千人の人々が見守っていました。
カレダ・ジア首相は挨拶の中で日本の協力に対する深い謝意を表しつつ、将来におけるフェリーのない道路網整備の目標について語っていました。私は日本の代表として首相始め多数の来賓の謝意を受ける名誉に感激しつつ、私の挨拶では最終部分でカタカナをふったベンガル語で、ラロン・シャー橋が両国の永遠の友情の象徴として長く記憶されることを希望する旨のメッセージを伝えました。
式典が終わるや、近隣から集まった数千人の人たちが「渡り初め」をしていましたが、これらの人々は長い間の悲願が叶い、パドマ川をどんな天候でも歩いて渡れるようになったことへの感慨や、これを可能にした日本国民への感謝の気持ちをもって渡っていたのではないかと思われました。
3日後、週末を利用して、先般 JICA 調査団がパドマ橋の建設地点として決定したマワから対岸のカオラカンジにフェリーで渡ってみました。6キロの川幅を渡るのに往路1時間、復路1時間半かかりました。乾期でも対岸が遥か彼方にしか見えないこの地点に、遠くない将来、ジャムナ橋をしのぐ大きな橋が架けられるのかと思うと大きな感慨にとらわれました。
ところで、バングラデシュにおいてはパドマなどの大河は、生活のあらゆる面で深く関わり合っています。最近の新聞報道では、パドマ、ジャムナ、メグナなどの大河に面した地域における大規模な土地や農地の流失が多数報じられています。数日前の新聞に、カオラカンジから車で1時間ほどのシャリアトプール県のナリア郡でも、パドマ川のために広域にわたって土地や農地が流失し、多数の人が家を失い、生活の手段を奪われて困っているとの記事が出ていました。ここまで来たので、ついでに行ってみました。
カオラカンジから南下する道路は、ボリシャル、さらには観光地クワカタに至る幹線道路で、地図の上でも比較的太い線で描かれています。しかし、実際は道幅も広くなく、しかも粗末な舗装が至るところで抉られて大きな穴をあけており、四輪駆動車でも難儀しました。将来、パドマ橋ができれば、これらの道も劇的に変わるのでしょう。
ようやくナリア郡にたどり着きパドマ川の岸に行ってみると、確かに数カ所で大規模な浸蝕が見られました。元々護岸工事など一切されていないので、例えば川中の中州が、川の流れで形を変えたり消失したりすると、それまで中州のおかげで流れの矢面にならずに済んでいた対岸の部分が水流の圧力をもろに受け、やがて流失していくのです。
家や農地を失い途方に暮れている人たちには大変申し訳ない言い方ですが、かかる現象は太古の昔から繰り返されてきたのです。そして、しばらくは途方に暮れている人々も、やがてなんとか住む場所を探し、なんとか生きていくための手段を見つけていくのでしょう。パドマの流れは太古の昔から、人々に試練と諦念と再び生きる勇気とを与えてきたのだと思った次第です。
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[これから]
● グラミン銀行ユヌス総裁の「日経アジア賞」受賞 ( 6月2日・東京 )
6月2日(水)に東京にて、第9回「日経アジア賞」の経済発展部門に選ばれたバングラデシュのムハマド・ユヌス・グラミン銀行総裁他2名に対する表彰式が行われます。「日経アジア賞」はアジアの安定・発展に貢献し、人々の暮らしを豊かにする上で功績のあった人々や団体を表彰するものです。
http://www.nikkei.co.jp/hensei/asia2004/asia/
なお、同日夜には中央大学後楽園キャンパスにてユヌス総裁の講演会「マイクロファイナンスの 30 年」が行われる予定ですが、 500 名の定員に達したため申し込みが締め切られた由です。
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~iip/anketo/anketo.htm
● バングラデシュ開発援助勉強会( IT 協力)(6月2日・ダッカ)
6月2日(水)午後5時より大使館にて、バングラデシュ開発援助勉強会が開催されます。テーマは(1)ドナー調整グループ (LCG) ウェブサイトの活用( Mr. Shawn Murphy, UNDP )、(2) IT 協力における国際社会のトレンドとバングラデシュ IT 産業の競争優位(織田 JICA 企画調査員)です。出席を希望される方は当館山川 ( yumiko.yamakawa@mofa.go.jp ) までご連絡ください。
● 日本トレードショーの開催(6月8〜 10 日・ダッカ)
6月8日(火)〜 10 日(木)、ジェトロ主催、当館・ダッカ日本商工会・ FBCCI 後援で、ダッカ・シェラトンホテルにて、バングラデシュで初めてとなる日本産業見本市「日本トレードショー」が開催されます(8日は午後1時から8時まで、9〜 10 日は午前10時から午後8時まで)。期間中は、日本製品、サービス等の日本に関連したブースが数多く展示され、和食フェア(午後7時から 10 時の夕食のみ)も開催される予定です。多数の皆様のご来場をお待ちしております。(詳しくはジェトロ・ダッカ事務所まで:電話 8818223 )
http://www.jetro.go.jp/bangladesh/eng/home.html
● 日本バングラデシュ・ビジネスフォーラム(6月8日・ダッカ)
6月8日(火)の午後2時から5時 30 分まで、ダッカ・シェラトンホテルにて、ジェトロ主催により「日本バングラデシュ・ビジネスフォーラム」が開催されます。このフォーラムは、両国間のビジネス促進を図るため、日本の商習慣や市場動向の情報などをバングラデシュのビジネスマンに提供し、理解を深めていただくことを目的に行われます。(詳しくはジェトロ・ダッカ事務所まで:電話 8818223 )
● 日本・バングラデシュ商工会議所 (JBCCI) 設立式(6月8日・ダッカ)
6月8日(火)午前 10 時から午後1時まで、ジャパン・トレードショーの開会式とともに、日本・バングラデシュ商工会議所( JBCCI )の設立式が行われます。バングラデシュ側からは外務大臣、商業大臣、投資庁長官他が出席する予定です。(詳しくはジェトロ・ダッカ事務所まで:電話 8818223 )
● アジアの写真家たち 2004 ・バングラデシュ展(5月 18 日〜6月 17 日・東京)
東京写真月間 2004 協賛ギャラリーによる国際展「アジアの写真家たち 2004 ・バングラデシュ」が開催中です。ご関心のある方は下記のウェブサイトをご参照下さい。
http://www.psj.or.jp/gekkan/schedule/bangla.htm
[これまで]
● バングラデシュ人材育成奨学計画への無償資金協力(5月 25 日・ダッカ)
5月 25 日、堀口大使とベッグ大蔵省経済関係局次官との間で、「人材育成奨学計画」の実施のために総額5億 1,500 万円の無償資金協力を行う旨の書簡が交換されました。詳細は以下のウェブサイトをご参照下さい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/16/rls_0525a.html
● 「日本・バングラデシュ関係の 30 年」セミナー(5月 23 日・ダッカ)
5月 23 日、ダッカ大学日本研究センターと大使館の共催により、シェラトンホテルにて日本とバングラデシュ関係の 30 年間に関するセミナーが開催されました。アタウル・ラーマン日本研究センター所長が基調講演を行い、堀口大使、カーン外相他約 170 名が参加しました。ラーマン所長の基調講演、堀口大使のスピーチは以下のウェブサイトに掲載されています。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/jp/mailMagazine/pdf/keynote-230504(PDF).pdf
http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/embassy/speeches/22sphjscsem230504.html
● バングラデシュ医療事情講演会(5月 22 日・ダッカ)
5月 22 日、ニームクラブと大使館の共催により、ダッカ日本人学校で、バングラデシュの医療事情についての講演会が開催されました。国際保健人口研究所の我妻先生、山形ダッカ友好病院の関野看護師、大使館の松原医務官他を講師としてお招きし、子供向けと大人向けのプログラム構成で行われました。子供もあわせて計 55 名が参加する大盛況となりました。席上配布資料は追って大使館ウェブサイトに掲載させていただきます。
● ラロン・シャー橋(パクシー橋)開通式典(5月 18 日・ラロン・シャー橋)
5月 18 日に、今般建設を完了したラロン・シャー橋(パクシー橋)の開通式典が開催され、ジア首相他多数閣僚及び堀口大使が参加しました。堀口大使は以下のスピーチを行いました。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/embassy/speeches/21sphlsbridge180504.html
詳細はプレスリリースをご参照ください。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/news/pr/14presslsbridge180504.html
[おしらせ]
● 渡航情報の発出
5月 20 日付でバングラデシュへの渡航情報が以下の通り発出(改訂)されました。詳しくは外務省海外安全ホームページをご覧下さい。 ○ チッタゴン丘陵地域全域:「渡航の是非を検討して下さい」(継続) ○ 首都ダッカを含む上記を除く全土:「十分注意して下さい」(継続)
http://www.anzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=012#header
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【3】特別寄稿「バングラデシュ人気質」
(ダッカ日本語学校校長:ブイヤン和子氏)
日本人でバングラデシュに数日間でも滞在したことのある人なら、一度はバングラデシュ人から「是非我が家に遊びに来てください。」とか、「我が家で食事してください。」等と誘われた経験があると思います。時として、それが初対面の人であったり、あまり親交のない人であったりすれば、日本人である私達は、何か下心でもあるのではないかとつい疑ってしまいます。
これについて考えられることは二つ、一つはバングラデシュ人は一般的に、元来の人懐っこい気質に加えて、日本人に対して特別な好感を持っており、他のどの国の国民に対するより親近感を抱いていること。もう一つはこの国の人々が、大のもてなし好きであることです。
田舎の貧しい人達、町の低所得層の人達でも、普段は質素な生活をしていても、客に対しては、人から借金してでも最高のもてなしをしようとします。それはほとんどの場合見栄などではなく、客に喜んでもらいたい一心からなのです。
それにしてもこの国の人は人寄せが好きです。結婚式(町の中流クラスの平均的な結婚式でも招待客は 300 〜 400 人を下らない)は元より、子供の誕生日、アキカと言う命名式、結婚記念日、その他機会あるごとに親類縁者、友人、知人等大勢の人を招いて大振る舞いをします。
バングラデシュの社会にはまた、赤ちゃん誕生、就職、卒業試験や国家試験で良い成績を修めた時などの家族の慶事に、親類縁者や日頃親しくしている人達に、ミスティーというみんなの好物の甘いお菓子を配り、一緒に喜んでもらい、またこれからの幸運を祈ってもらう習慣があります。祝ってあげたい人が入学祝い、就職祝い等をあげる日本の習慣とは逆であるところがおもしろいと思います。
もう一つ私達日本人にとって興味深いことは、バングラデシュ社会では友人同士でも割り勘ということをほとんどしないことです。学生の間でも、仲間同士でいっしょにお茶を飲みに行って各々が自分の飲み食いした分を支払うことはほとんどなく、その内の誰かが全員の分を払う形になります。それはその日みんなを誘った人であったり、その時お金を持ち合わせている気前のいい人であったり、親分肌の人であったりする訳だけれど、その人はそのためにたとえ財布が空になっても、みんなにおごってあげたという満足感で心は十分満たされるのです。
しかし、こうなると往々にして、人によっては「ギブ・アンド・ギブ」あるいは「テイク・アンド・テイク・アンド・テイク」になってしまう訳ですが、そんなことは両者のどちらも気に留めません。
バングラデシュ人のこのもてなし好き気質は、同じ民族であるコルカタに代表されるインドの西ベンガル地方の人とは全く異なる故、これはやはりバングラデシュ人特有のものらしいのです。
(ブイヤン和子さんは 1974 年よりバングラデシュ工科大学で希望者に対する日本語講座を開始され、 76 年からは現「ダッカ日本語教室」( 72 〜 95 年までは「大使館日本語講座」として開講)にて、のべ 1300 名の卒業生を送り出し、 30 年間にわたり当地で教鞭を執られ、バングラデシュにおける日本語教育の振興に貢献されてきました。今後の更なるご活躍を期待しております。)
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【4】駐バングラデシュ歴代大使の証言・第3回(第8代大使:齋木俊男氏)
「深夜の会談」
大使として着任して1年経った 1992 年3月初め、首相府から突然連絡があり、ジア首相が緊急に会いたいから夜の十時に来てくれと言われました。時刻はもっと遅かったかもしれません。ダッカでは ” 深夜 ” といってよい時間帯です。途上国勤務が長く、時でもない時刻に呼び出されることには慣れていましたが、これはいささか異常でした。用件は「カフコ」でした。
「カフコ」は当時の第一次ジア政権の前、エルシャド独裁政権末期に計画が出来たプロジェクトです。現地の天然ガスから肥料をつくり、それを輸出して外貨を獲得する計画ですから、本来バングラデシュの利益にかなうものですし、また国際的民間投資事業だから「 ODA も投資も欲しい」というバングラ側の希望にもぴったりのはずでした。
ところが新政権はストップをかけました。理由は「独裁政権が決めたことは疑わしい」ということでした。そう疑うとバングラ側には不利と思われるような条件がたくさん出てきました。
実際には、それらは「カントリーリスク」をカバーするためのやむを得ない諸条件でしたし、バングラ側が国際的な投資慣行や法理をよく知らないために生じた誤解もありました。しかし企業側による説得は難航しました。やがてバングラ政府による債務保証状の発給が緊急の問題として出てきました。バングラ側は「政府による債務保証は主権に抵触する」と主張してその発給を留保しました。
これこそまさに国際ビジネスを知らないための主張でしたけれども、そう言っても効き目はありませんでした。このギャランティー・レターなしには投融資が動き出さないのです。計画は立ち枯れになる重大な危機に直面しました。私が着任したのはその時期でした。
「カフコ」は民間事業ですが計画には一部日本の政府系資金が入っています。また丸紅を中心とする日本企業は最大の出資者ですから、危機打開のため日本大使の私が努力するのは当然でした。それに事業はおよそ 10 カ国の企業が関係する国際的な広がりをもち、世界的に注目されていました。
もしバングラデシュがこのプロジェクトをつぶすようなことをすれば、国際的信用は地に落ち ” 最貧国 ” として享有する同情も失われてしまいます。そうなれば日本による ODA 供与も困難になります。そこで私は全力を挙げて関係大臣や政府要人に保証状発給の必要性を説いてまわりました。
やってみると「のれんに腕押し」でした。大臣や要人たちは、ほかのことならともかく問題が「カフコ」と知ると逃げてしまいます。会ってくれても目立たない場所を選ぶなど極力人目を避けようとしました。「カフコ」に反対というよりも、問題にかかわって疑惑の的になるのをいかに避けるかが要人たちの関心事でした。新政権にとって「カフコ」はまさに政治的疫病神だったのです。
このようにしてずるずると一年近くが経ってしまいました。私はあきらめず説得をつづけましたし、出先の私だけでなく、本省その他あらゆるレベルで危機打開の努力がされました。関係援助国も協力してくれました。
そのうちバングラ側には「このままの状態がつづくと ODA に影響が出かねない」と本気で懸念する空気が出始めました。いろいろな機会にその可能性が指摘されていたからです。筋論に立って説得を重ねる誠意もある程度通じました。
ジア首相との深夜の会談の場所は、首相のオフィスではなく迎賓館の奥まった部屋でした。時間も場所も明らかに人目を避けた設定でした。先方は首相一人。練達の官僚上がりと思われる年配の人物が通訳に当たりました。やり取りの内容については守秘義務があるけれども、結局私はこの場で首相の口から直々に「保証状を発給する」という回答を聞くことができました。感無量でした。もちろんバングラ政府としての結論は会談の前に出ていたのでしょう。しかし会談は単なるセレモニーではありませんでした。
途上国大使ポストの良いところは、その国の最高首脳と比較的容易に会えることです。しかしサシの会談で、まして実質重要事項について首脳と直接やりとりする経験はまれにしかありません。ましてその会談相手が若くて美貌の女性首相というケースはめったにあることではないでしょう。この会談は私の外交官生活の中で長く記憶に残る出来事になりました。
「カフコ」については私の離任後もまだ相当の紆余曲折があったようです。しかし聞くところによると最近の業績は良好だそうです。これまた感無量ですし、バングラデシュのために大変喜ばしいことです。( 2004 年5月 10 日 記)
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【5】バングラデシュ名所案内・第4回「ショドルガット訪問」
ダッカ市の旧市街にあるショドルガットは、私がダッカで一番バングラデシュらしさ、活気を感じるお気に入りの場所です。平日はショドルガット周辺の細い道がリキシャで埋め尽くされ、ひどく渋滞するので、車で行くなら金曜日または平日の早朝をお勧めします。
ショドルガットは潮の満ち引きにより水かさが大きく変わるブリガンガ川に開かれた港で、昔からダッカへの物流に重要な役割を果たしてきました。現在でも南部・南西部のボリシャル、チャンドプール、ボラ、ファリドプール、クルナとダッカ間を運行する約 100 艘の客船、その他様々な物資の運搬船等が発着し、果物、野菜、干物の市場として毎日大変なにぎわいを見せています。
元々は大型船舶も利用できる港でしたが、川底にシルトが堆積して浅くなったこともあり、現在大型船は運行出来なくなっています。 1820 年代頃からショドルガットの東側に行政府や事務所が立ち並ぶようになり、北側は市の中心街として発達してきました。
ショドルガットの建物の2階に上がって眺める景色はいつ見ても活気に溢れています。正面にはたくさんの客船が並び、船着き場は物売りや乗客でひしめき合っています。川面には無数の手こぎの船が人や野菜や様々な荷物を載せて忙しく行き来しています。正面に向かって左右には、それぞれ 1989 年・ 2001 年に開通した、オールドダッカとケラニゴンジをつなぐバングラデシュ・中国友好橋が架かっているのが見えます。建物の裏、旧市街側に回ると、細い道が色とりどりのリキシャで埋め尽くされている様子が伺えます。
私達は小舟に乗るために船着き場に下りました。船に乗らないかと、たくさんの船頭が声をかけてきましたが、一人の船頭と 30 分 40 タカ(1タカ=約2円)で交渉がまとまり、船に乗り込む事にしました。
船着き場と大きな客船との間の隙間に木製の小舟がつないであり、客船の脇の 40 センチくらい張り出した所を伝って、隣の小舟に飛び降りるように言われました。小舟に乗って出発しようとすると、他の船頭が、 500 タカ、 500 タカとはやし立てています。(多くの外国人は 500 タカ払って乗っているのでしょう。)
さて、どうやって船と船の間を通り抜けるのか。隣り合って停泊中の2艘の客船の船底と水面の間の1メートルぐらいの隙間を通り抜けるときは全員が頭をぐっと低く下げました。船底から汚物が垂れ流されているのが間近に見え、臭いにおいがしました。
船に乗ってブリガンガにこぎ出すと、日差しは強いのですがそよ風を受けてとても良い気持ちです。停泊した小舟の上から私達に無邪気に手を振る子供達の笑顔はとても明るく、私の気持ちまで明るくしてくれました。
船頭さんに聞くと、木製の小舟は 4,000 タカで作ったということでした。船を下りてお金を払おうとすると、船頭さんが「バクシーシ、バクシーシ(お恵みを)」としきりに繰り返します。私達は 60 タカを払ってショドルガットを後にしたのでした。(大使館広報文化班・河野秀美)
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