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日本語の最新号及びバックナンバー


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日本・バングラデシュ交流メールマガジン(第 6号・2004/04/29)
?日本とバングラデシュの橋渡しのために?
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□ 目次 □

【1】堀口大使メッセージ「バングラデシュ人と『ムガールの末裔』」

【2】最近の日本・バングラデシュ関係

[これから]
●ビジネス・セミナー(5月1日・ダッカ)
●民間セクター開発セミナー(5月2日・ダッカ)
●日本・バングラデシュ商工会議所の設立発起人集会(5月5日・ダッカ)
●バングラデシュ開発フォーラム(5月8〜10日・ダッカ)
[これまで]
●ラジシャヒ大学に対する図書寄贈式(4月22日・ダッカ)
●ヘレン・ケラー・インターナショナルの点字教科書寄贈式
  (4月21日・ガジプール)
●JICA・経済関係局(ERD)共催日本ODAセミナー(4月21日・ダッカ)
●ナショナル・プレス・クラブでの堀口大使講演会(4月20日・ダッカ)
●地震対策セミナー(4月17日・ダッカ)

【3】特別寄稿「チッタゴン丘陵地帯の問題に取り組む日本のNGO」

(NGOジュマ・ネット:下澤嶽氏)

【4】駐バングラデシュ歴代大使の証言・第1回(第10代大使:金子義和氏)

「バングラデシュ:繰り返される政情不安のシナリオ」

【5】バングラデシュ名所案内「パクシー橋からジャムナ橋への旅」

【6】前号の訂正のお知らせ


【1】堀口大使メッセージ「バングラデシュ人と『ムガールの末裔』」

先日「ムガールの末裔」(The Living Mughals)というドキュメンタリー映画を見る機会がありました。ムガール帝国最後の皇帝バハートゥル・シャー二世(在位1837-1857)の末裔の家族の4世代にわたる歴史を初めて明かすとの宣伝文句に心を惹かれて見に行きましたが、映画では、同皇帝と第一妃アシュラフ・マハールの間の直系子孫に当たるライラ・ウマハニというハイデラバードに住む80歳の女性とのインタビューを中心に、ムガールの子孫たちがいかに時代の変遷に適応していったかを取り上げていました。

彼らにとっては困難な人生をいかに生き抜いてきたかが最大の問題であり、ムガール皇帝の末裔としての栄光など考えている暇はなかったということでしたが、生活が困難であればあるほど大きな支えになっていたに違いありません。

ムガール帝国は1525年成立してから、1707年第6代皇帝アウランゼーブの死とともに衰退を始め、各地で地方勢力が力を持つようになり、18世紀半ばにはデリー周辺を支配するだけの一勢力に転落します。そして英東インド会社の1世紀に及ぶ植民地化攻略によって、19世紀半ばには最後の皇帝バハートゥル・シャー二世はデリーで年金生活を送るまでになっていました。

ところが、1857年セポイが中心になって反乱を興すと、英国の権威に対抗すべくシャー二世を皇帝として擁立するとともに、行政会議を招集しデリー政権を樹立しました。反乱はインド全土に広がり1年2ヶ月も続きますが、これをようやく鎮圧した英国は、インド王を「僭称」した同皇帝を国家反逆罪で有罪とし、流刑地ラングーン(ヤンゴン)に追放しました。彼は1862年同地で87歳の波乱に富んだ生涯を閉じます。

試写会に来ていたのは年配の人たちが圧倒的に多く、上映後、映画を作ったグプタ監督との質疑応答では、何人かの人から、自分は同皇帝と4人いた妃のうちの一人との間にできた子供の子孫の誰それを知っているとの話があり、同監督はどんな断片的な話でも良いので知らせて欲しいと応えていました。同監督は質問に答えて、偶然出会った皇帝の子孫たちに、いかに長い間の沈黙を破り、自らについて語って貰うことに成功したかについて控えめに話していまし
た。

また、私の隣にいた知人の元閣僚は、自分の左隣にいる上品な女性は最後の皇帝の子孫の一人であるが、彼女はそのことを死ぬまで誰にも知られたくないとしている旨耳打ちしてくれました。この女性の、自分のことは誰にも知られたくないが他の子孫がどうなっているかは知りたいという心理は、何となく分かるような気がしました。

ムガール王朝について、これまで会った比較的年配のバングラデシュ人の多くが親しみを持っていることに関心を抱き、その理由を尋ねてみたところ、創始者バーブルが父はトルコ系のティムール4代目の子孫、母はチンギス・ハーンの次男の子孫であり、これまでのアーリア系インド王朝に比しベンガル人に近いこと、また、ムガール帝国時代にベンガルの発展が進み、とくに、ベンガル語についてアラブ語やヒンディー語の影響をできるだけ取り除き、言語としての完成が図られたことなどを挙げていました。

ムガールの末裔たちへのバングラデシュ人の関心が、このようなムガール王朝そのものへの親しみに由来していることは間違いないようです。


【2】最近の日本・バングラデシュ関係

[これから]
●ビジネス・セミナー(5月1日・ダッカ)
5月1日(土)午後4時より、ダッカ日本語教室同窓会(DAJLIAA)の主催で「Ethical Business Development in Bangladesh Following the Japanese Business Philosophy」と題するビジネス・セミナーがアガルガオンのLGED Bhabanにて開催されます。同窓会会長のブイヤン氏が基調講演を行い、志ネットワーク青年塾主宰の上甲晃氏、国際エンゼル協会スタディツアー参加の本邦ビジネス関係者の方々も発表する予定です。南北大学のシディキ副学長、ダッカ大学のチョードリー教授他も参加します。ご関心のある方は大使館にお気軽にご連絡下さい。
(電子メール:mail@embjp.accesstel.net

●民間セクター開発セミナー(5月2日・ダッカ)
5月2日(日)午前10時〜12時半、ショナルガオンホテルにて、JICA主催による「第2回低所得・低開発国における産業振興手法分析セミナー」が開催されます。今年初めからJICAコンサルタントがバングラデシュを対象に調査を行ってきた成果を発表する予定です。

●日本・バングラデシュ商工会議所の設立発起人集会(5月5日・ダッカ)
5月5日(水)午後5時よりショナルガオンホテルにて、日本・バングラデシュ商工会議所(JBCCI)の設立発起人集会が開催されます。設立発起人となっていただける方が集まり、両国の経済交流促進の中核団体とすべく、今後の組織体制や方向性について議論を行う予定です。ご関心のある方は日本貿易振興機構(JETRO)ダッカ事務所までご連絡ください。(電話8818222)

●バングラデシュ開発フォーラム(5月8〜10日・ダッカ)
5月8〜10日、ショナルガオンホテルにて、バングラデシュの開発課題全般について政府・ドナー間で話し合われる「バングラデシュ開発フォーラム」が開催されます。本会合では貧困削減戦略・ミレニアム開発目標、ガバナンス、社会開発、NGO、貿易・投資促進、インフラ整備など幅広い分野における問題が議論される予定です。

[これまで]
●ラジシャヒ大学に対する図書寄贈式(4月22日・ダッカ)
4月22日、インディペンデント大学への図書寄贈(15日)に引き続き、堀口大使はラジシャヒ大学のA.B. Siddique教授に対し、日本の歴史、社会、経済、文化等に関する書籍計28冊を大使館にて引き渡しました。プレスリリースは次の通りです。

http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/news/pr/13pressjfbookru220404.html

●ヘレン・ケラー・インターナショナルの点字教科書寄贈式 (4月21日・ガジプール)
4月21日、堀口大使はトンギ・点字図書印刷所にて行われたヘレン・ケラー・インターナショナルによる点字本のバングラデシュ政府・社会福祉省への寄贈式に参加し、下記のスピーチを行いました。今回上記NGOよりバングラデシュ政府に無償提供された点字教科書は1999年度の日本の草の根無償援助資金協力等の資金協力に基づき、クラス6〜10の生徒の教科書として作成されたものです。

http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/embassy/speeches/20sphhki210404.html

●JICA・経済関係局(ERD)共催日本ODAセミナー(4月21日・ダッカ)
4月21日、ショナルガオンホテルにて、JICA・バングラデシュ経済関係局(ERD)共催で日本ODAセミナーが開催されました(約130名参加)。

堀口大使は以下のスピーチを行いました。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/embassy/speeches/19sphodasem210404.html
主要席上資料は次のウェブサイトに掲載しています。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/jp/bdmodel/index.html

●ナショナル・プレス・クラブでの堀口大使講演会(4月20日・ダッカ)
4月20日、ナショナル・プレス・クラブの主催により、同クラブのジャーナリスト他約100名が参加して、堀口大使講演会が開催されました。日本・バングラデシュ関係について政治、経済、開発、文化・人的交流など幅広い分野を取り上げた講演の後、多数の記者からの質問に答え、新聞やテレビにも広く取り上げられました。

http://www.bd.emb-japan.go.jp./en/embassy/speeches/18sphnpc200404.html
印刷用のPDFファイルは次の通りです。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/embassy/speeches/jbrelation-e.pdf

●地震対策セミナー(4月17日・ダッカ)
4月17日、ショナルガオンホテルにて、JICAとバングラデシュ気象庁(BMD)の共催で、ユスフ災害対策大臣、堀口大使他約70名が参加して地震対策セミナーが開催されました。日本より5名の専門家が講演し、日本の経験・技術の紹介とバングラデシュの地震対策への提言を行いました。堀口大使のスピーチは次の通りです。
http://www.bd.emb-japan.go.jp/en/embassy/speeches/17sphseismology170404.html


【3】特別寄稿「チッタゴン丘陵地帯の問題に取り組む日本のNGO」

   (NGOジュマ・ネット:下澤嶽氏)

チッタゴン丘陵地帯はバングラデシュの南東部に位置し、ムガール帝国以前より、モンゴロイド系の住民が焼き畑農業を中心として定住してきました。人口の1%にも満たない11とも13ともいわれる民族がそこでは暮らしています。しかし、平野部にすむベンガル人との接触が徐々に増えるとともに、先住民族との間に緊張関係が高まっていきました。

バングラデシュ政権になってから強い政治的抑圧が続き、とうとう武力抗争が始まりました。人々への抑圧は厳しく、拷問、レイプ、虐殺、土地の収奪など厳しい状況が続いてきました。またバングラデシュ政府の政策により平野部より入植者が移住するようになり、状況はさらに複雑になっていきました。現在人口の半分がベンガル人という状態です。

長い抗争の末、1997年に先住民族と政府との間で和平協定が結ばれました。しかし、残念ながらその内容はほとんど実施されないままです。昨年8月には、ベンガル人入植者と軍が一体となった襲撃事件がモホルチョリで発生し、400世帯近い家が焼き討ちにあいました。このように、紛争がいつ再開するかわからない状態が続いています。

バングラデシュに関心をもつ日本のNGOや個人が増えてきましたが、残念ながらチッタゴン丘陵の問題はあまり知られてはいません。ジュマ・ネットは、こういったチッタゴン丘陵問題の現状を平和的解決に向けていくよう有志やグループが2002年に集まって作られたネットワークです。これまで進めてきた活動は、日本市民に状況を知らせる場づくりや学習会の開催です。

昨年は現地からスピーカーを招いてシンポジウムを開催しました。最近では、襲撃事件のあったモホルチョリの復興事業として、農業機械や種、毛布、教科書配布などの支援を行ないました。将来的な活動として、緊張関係の高まっている場所へ日本からの平和ミッションを派遣、チッタゴン丘陵白書の発行と配布(これは日本の政府や関係者の方々に配布したいと思います)、そして日本政府や援助関係者の方々との懇談会などを開いていければと思っています。

平和や権利を叫ぶだけでなく、双方の立場にたった具体的な提案や、ODAの平和利用、多様な国際機関の調整などを徐々に実現していけたらと思っています。また、平和のための戦略ペーパーも先住民族の人々と共に作れたらと思っています。まだボランティア中心の会ですが、本年度からは事務所を置き、アルバイトが置けるぐらいの規模の活動にしていきたいと思います。どうぞ皆さんこれからもアドバイスをお願いします。


【4】駐バングラデシュ歴代大使の証言・第1回(第10代大使:金子義和氏)

  「バングラデシュ:繰り返される政情不安のシナリオ」

私は1995年11月から99年9月まで、3年10ヶ月の間バングラデシュ大使を勤めさせて頂きました。今回、私の在任中のエピソードなどを書いてほしいと依頼を受けましたので、隠遁生活に慣れきった頭を切り替えて当時を思い起こしてみることにします。

私の在任中はバングラデシュでは実に色んな事がありました。反政府運動がピークに達するなかの信任状奉呈(ちなみに離任時の大統領への挨拶の時もハルタルでした)、KAFCO問題、ハシナ首相と外相の訪日、ジャムナ橋開通式典等々忘れられない出来事が数多く想起されます。ここでは、しかしながら、着任時の政情不安な中での出来事に絞って記したいと思います。

91年2月に発足したジア政権に対して、数年を経ずして国民の色んな不満が徐々に高まってきますが、野党アワミ連盟は、94年3月の補欠選挙の不正を契機に、次期総選挙の実施方法を反政府運動の主眼として、ジア首相の退陣を求め強烈な反政府運動を展開します。そして、95年を通じハルタル、鉄道・道路封鎖、デモ等が日常茶飯事のごとく頻発され、バングラデシュの経済活動は麻痺状態となっていきました。ジア政権は、事態の打開を計るべく11月には議会を解散し、次期総選挙を96年2月に行うと発表しますが、野党はジア首相の下での選挙を拒否し、選挙管理内閣の樹立を主張して対立はさらに激化しました。

この間私は、米、英、仏、独、伊、豪の大使とともに野党のハシナ総裁とジア首相を訪問して総選挙への参加、話し合いによる解決を呼びかけましたが、両者の話し合いは実現せず、野党がボイコットする中で2月15日に総選挙が行われ、当然のことながらジア首相の与党が圧勝しました。野党はこの選挙を「茶番」と嘲笑、翌日から1ヶ月にわたる「非協力運動」を宣言して、休日以外は毎日がハルタルの状況となりました。

さらに、選挙を監視したNGOが選挙に不正があったと発表し(投票率の改ざん等)、これを問題視した西側各国大使までが選挙結果を認めがたいと非難しました。与党だけが参加する選挙で不正とは不可解ですが、この時点での反政府運動の高まりは、このような指摘を受け入れるべくもなく、総選挙は「茶番」とする見解が大勢を占めるに至りました。(ジア首相は、しかし、総選挙後の議会で、選挙管理内閣の下で総選挙を行えるよう憲法を改正した上で国会を解散し、最後まで筋を通したのは立派でした。その後2001年の総選挙ではハシナ首相が選挙管理内閣を非難する事態となりますが、まことに皮肉なことです。)

そして政治、経済の機能麻痺状態はさらに悪化し、外国企業の撤退も不可避の状況となりました。チッタゴンの輸出加工区の日本企業も港の長期間封鎖で輸出が滞り大打撃を受けました。私はチッタゴンの日本企業、邦人の安全につき政府ではなく、野党のハシナ総裁に申し入れを行わざるを得ませんでした。ちなみに事態改善後に日本企業の輸出が優先されたことは、ハシナ総裁への働きかけも一因だったと思っています。

邦人企業からいつまでこんな状況が続くのかとの悲鳴に似た質問を受けた時に、「あと一週間待ってください」と答えましたが、根拠のないものではありませんでした。事実このような事態が続くわけもなく、3月末に至り国家公務員がストに突入し、次官の何人かが反政府デモに参加するなど、行政が機能しなくなり、ジア政権が崩壊しました。

96年6月の総選挙でハシナ総裁が勝利しましたが、総選挙では、ハルタルに専念して経済を悪化させた野党が悪いのか、野党の勝手なハルタルに無策だった政府が悪いのかが争点となったと言えます。今日現在バングラデシュから聞こえるニュースの現状が95年末に酷似しているように見えます。現政権は政権死守に努めるだろうし、ハルタルに強いアワミ連盟の攻撃は激化するでしょう。
そして結局は、過去と同じような進展となる恐れが高いのではないでしょうか。日本企業もハルタルに辟易しつつも、過去に学んで自衛策を講じてほしいと願わざるを得ません。


【5】バングラデシュ名所案内・第2回「パクシー橋からジャムナ橋への旅」

3月14日(ベンガル正月の祝日)に、日本のODAで建造されたパクシー橋(開通間近)とジャムナ橋(1988年開通)を、日帰りで訪問しました。バングラデシュの大河を見ながら日本との関わりを実感できるお勧めの旅です。

マニクガンジのパトゥリア・フェリー乗り場から約20分で、対岸のドウロトディアに到着しました。パクシー橋に向かう途中、干上がって川幅が300メートル程のガンジス支流ゴライ・マドゥマティ川をフェリーで渡りました。野球帽に黒のサングラスの陽気な船員は、外国人が珍しいのかとても親切で、私たちのために早く船を出せと命令しつつ、何かごちそうしようか、キュウリを食べるか等聞いてくれました。

パクシー橋が近づくと、道路の舗装が急に良くなり、車がとてもスムーズに走り出しました。休日でしたが橋付近には働いている人もおり、私たちは数人の女性を含む作業員と話しました。白くほっそりした印象のパクシー橋から300メートル程離れたところに、ハーディング橋という赤茶色の列車用の鉄橋が併走しています。作業員の人によれば、歩いて渡る事ができるとのことでしたので、隣のハーディング橋からパクシー橋を眺めることにしました。

ハーディング橋からの眺めはとても素晴らしく雄大でした。遙か西のインドとの国境の側を見ると、ガンジスの流れとその周囲の風景は広大で、河筋と森の緑と空がとけあって霞んで見えました。東側には開通式間近のパクシー橋の全体像が見え、自転車や徒歩で橋を渡る人もいてのどかな様子です。

来月中旬にジア首相も参加して開橋式が行われる予定のパクシー橋は2001年11月に工事が始まりました。総工費221億円(国際協力銀行(JBIC)による融資179億円、残りはバングラデシュ政府の自己資金)、全長1,786メートル、ハーディング橋と同様に16本の橋脚に支えられています。

隣のハーディング橋の工事はイギリス人技師らの手により1910年に開始され、12年に完成、15年にハーディング・インド総督が出席して開橋式が行われました。独立戦争時には迫撃砲の攻撃を受けて橋の一部が落下しましたが、1972年10月にバングラデシュとインドの鉄道会社の合弁事業により再び開通しました。大切に修復を重ねて利用されてきたようで、その日も錆止めのペンキを塗る作業が続いていました。

橋のたもとの茶店で遅い昼食をとっていると、通りがかったパクシー橋建設事務所勤務のフセインさんが親切にも橋の案内を申し出てくれました。彼の先導でパクシー橋を車で往復し、途中で止まってパクシー橋から東を見ると、パクシー側からベラマラ側に向かって、水の干上がった河床に大型トラックが何十台も列を作ってフェリーを待つ様子が見えました。橋が開通したらあのトラックはもう何時間もフェリーを待つ必要がなくなるのですね。

その後事務所でお茶を頂きながら橋の敷設工事の写真を見せてもらいました。驚いたのは1つ1つの橋脚を支えるため、河川の底深くに長さ約91メートル、直径約3メートルもの柱が4本も埋め込まれているという事です。

そこからジャムナ橋まではわずか2時間です。ジャムナ多目的橋は全長4.8キロ、幅18.5メートル、日本の円借款約213億円の拠出も得て、1994年10月に着工、1988年6月に開通し、自動車、鉄道が通れるばかりでなくガスや電気も送ることができ、首都ダッカと北部地域を結ぶ重要な役割を果たす橋です。パクシー橋がほっそりと女性的な感じの橋なのに対し、ジャムナ橋はどっしりと大きく男性的で渡りきるまでの時間も大分長く感じました。

行きはフェリーで、帰りは日本の協力で敷設された橋を渡って、パドマ(ガンジス)・ジャムナ・メグナという3つの大河とその支流の懐に位置するこのバングラデシュという国、そして日本との関わりを肌で感じる旅となりました。(大使館広報文化班・河野秀美)


【6】前号の訂正のお知らせ

第5号メールマガジンの【4】バングラデシュ名所案内・第1回「独立戦争博物館」のなかで、「1952年2月21日の語学運動」と記載しましたが、Language Movementは「言語運動(ベンガル語の公用語化運動)」と述べる方が適切であるため、訂正させて頂きます。また、独立戦争博物館の開館日につき、「日曜日を除く月曜〜金曜日」とお知らせしましたが、正しくは「日曜日を除く月曜〜土曜日」となりますので、訂正致します。



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